遺伝子のようなものが自然に自分を導いてくれた
■松本棟梁は宮大工になって何年目ですか?
40年ですね。棟梁になって30年です。
■宮大工になったきっかけや理由はなんでしょうか?
今から自分の若いころを振り返ってみましても「だから私は宮大工になろうと思ったのだ」という出発点のようなものは、漠然としていてなんとも答えにくいのです。やはり、我が国日本に1000年以上前に堂宮の技術が大陸から伝わって、そしてその技術をまた日本人独自の繊細さとか、美しさとか、そういうものに置き換えていって今日に至っているわけです。何か日本人の持つ遺伝子の中に、建物の持つ美しさとか、素晴らしさとか、見るものを圧倒するような様式を持っているのではないでしょうか。私がこの道を始めたわけじゃない1000年以上前から、日本人が形にして行ったものの中の遺伝子のようなものが自然に自分を導いてくれた気がするというのが正直なところだと思います。
■何か心を動かされる原体験みたいなものはあったのですか?
やはり中学生の修学旅行の時に見た法隆寺だとか、東大寺、清水寺、金閣寺などが原点ではないかなと思います。もちろんその時に「俺は宮大工になるんだ、職人になりたいんだ」と思ったわけじゃありません。でもそういうものを見て美しいと思い、迫力があると思い、すごいと思う遺伝子そのものをもっている自分たちの祖先がいるのではないかと思います。
■最初から宮大工を目指したのですか?
はじめから宮大工だったわけじゃありません。建築技術を学ぶために、最初は一般の田舎大工の弟子入りをしたのが元々でしたね。私の出身地である岡山で、中学を卒業してすぐに弟子入りをしました。地方にあるようなごく一般的な農家にある建物を建てたりしていたのですが、だんだん木造建築物というものが若いなりにもわかってくるわけですね。そんなところから自然に「さらにこういうものを作りたい」、「あれはどうなっているのだろう」と、どんどん興味が増していったのです。
こういうものを作る人達はどんな人達なのか見たいという気持ちにかられて
■宮大工になろうという転換点はどこにあったのですか?
地方でやっていて5年も経つと、そういうことに気がつき始めて、私は法隆寺に行ってみたいと思いました。修学旅行で行った法隆寺を訪ねて、法隆寺の棟梁に会って、こういうものを作る人達はどんな人達なのか見たいという気持ちにかられて、自然に自分一人で法隆寺の西岡常一棟梁を訪ねました。それは自分にとってとても自然だった気がします。ちょうど20歳の頃でした。
■そこから宮大工の修業を始めたのですか?
修業というか、元々田舎で大工をやっていますから、ノミ、カンナを持ったことも見たことないわけではないので、どういう使い方をするのか、これをどう応用するのだろうか、そういうものを見たい、体験したいというということが先でしたね。
■どこかに弟子入りしたのですか?
法隆寺の西岡棟梁に弟子にして下さいとお願いをしたのですが、やはり簡単に内弟子をとるわけではないので、弟子にはしてくれなかったのですが、5年もやっているのであれば、ノミもカンナもわからないわけではないので、そういうものを作っている現場に行って勉強するのが一番だろうというアドバイスをもらいました。でも塔や神社やお寺の本堂を作っているところはどこにあるのか知らないわけですから、根気よく通ってお話を伺っている間に、「場所は紹介してあげるから」と、西岡棟梁が自分の名刺の裏に書いてくださった東京の文化財専門工務店に来たのが最初でしたね。
現場にいるんだという実感だけで、毎日夢のように思っていました
■東京で宮大工の修業を始めて気がついたことや苦労話はありますか?
自分の中に神社仏閣の建物をやってみたい、こういうものはどうやってできているのかが知りたいという気持ちが先行していましたので、何が出来るか出来ないかは二の次三の次で、そういう場に居たいということが一番先行していましたので、なにも出来なくてもそこにいて掃除をしようが、材料運びをしようが、御用聞きをしようが、飯炊きをしてようが、そういう現場にいるんだという実感だけで、毎日夢のように思っていました。だから下積みがどうとか、掃除や材料運びしかやらせてもらえなかったなんて思ったこともありませんでした。自分もこの塔を作っている一員なのだという実感に浸っていましたね。
■そこで何年くらい修業をしたのですか?
私が東京の文化財を専門に手がける会社にいたのは12年ですね。
■最初にご自身が携わった建物ができた時の感動とかはあったのでしょうか?
それはそうですね。自分が中心になってやったわけではありません。とにかく材料運びや掃除とかばかりやっていても、ものが出来たっていう実感は嬉しいものですね。ですから辛いとか苦しいとか、お金がもらえないとか思ったこともないですね。飯さえ食えればお金の勘定なんてしたことがありませんでした。一つひとつ、自分が憧れていたものが、目の前で組み立てられて出来上がって行くことを自分で体験し、見習いであっても駆け出しであっても参加できたという満足感で一杯でしたね。
■その12年間でどのくらいの建物に携わったのですか?
全部で5棟ぐらいしかないですね。やっぱり一つの建物が2年も3年もかかりますから。小さな工事ではあちこち行きますが、大きな工事は時間もかかりますので、たくさんは出来ません。
一番難しかったと自分が感じたのは、人と人との関わりですね
■実際に難しかった場面などを教えて下さい?
作業とか道具を使うとかは、そんなに苦になったようなことはありません。誰だって初めは下手に決まっているし、それはわかっていることですし、ものすごい高度なことを入ってきた見習いにやらせることはありませんから。ですが一番難しかったと自分が感じたのは、人と人との関わりですね。そういう現場で仕事をしていますと、3人や5人でできる事ではなく、15人いたり18人いたりしますので、みんなが同じではないのです。もたもたしている自分に「初めから慣れている人はいないのだから」と、「こういうことに気をつけてこうしたらいいよ」とアドバイスをしてくれる人がいるかと思うと、そういう言葉を使わずに「何やってんだよ」といって蹴散らされる人もいました。するとだんだん、この人にはこう接しなくてはいけない、あの人にはこう接なくてはならないと、人間とは自動的に覚えるもので、それが一番困ったというよりも何よりも、苦労というよりもそれが今でも一番勉強になっていますね。それが修業の原点だったように思えます。
現場を見に来ただけなのに、「ここだ」というのがわかったような気がしましたね。それが鎌倉の原点です
■なぜ鎌倉で松本社寺建設を立ち上げたのですか?
最初は会社の仕事として鎌倉を訪れました。私は岡山で生まれて、奈良に行ってみて、それから関東にいきなり来て、関東は関東でも当初居たところは東京でしたから、私が来た頃の東京は光化学スモッグ注意報がどんどん出るような時だったから、空気は決して綺麗じゃなかったのです。岡山の田舎で育ったことを思うと、なんか人間が住めそうにないぞと思ったぐらいですから(笑)。でもそんな事でへこたれるわけではなく、やっぱりその仕事をしたい、技術を身につけたい一心ですから、空気がどうもあんまり気持ちよくないなと思う程度で、そんなことは日頃忘れていたのです。でもどうもそんな思いが心の片隅にあって、一生は住めないんじゃないかと漠然とは思っていました。それでたまたま鎌倉の現場に来た時に、その差に驚きました。なんて気持ちのいい場所なんだろう。こんな気持ちのいい場所は自分の岡山の田舎にもない。かといって北関東の雰囲気でもない。温暖っていうのですかね。海の近くで育ったわけではないのですが、海の近くのこの湘南という気候というものを来た瞬間に思いましたね。それでは私はなんとはなしに自然に「いずれここに住むんじゃないかな」「ここで生きていくのではないかな」と、まだここで仕事したわけではなく、現場を見に来ただけなのに、「ここだ」というのがわかったような気がしましたね。それが鎌倉の原点です。
■そこで鎌倉で独立ということになったのですね?
そうですね。それはずっと今でもかわらないのですが、ここで何かやっていければいいなと感じました。私は会社の仕事としては鎌倉に6年いましたから、それが終わった時点で、普通は引っ越して次の現場に行くのですね。でもその時に鎌倉のこの地で何か出来ないのか。私は大工職人ですから、この鎌倉にも東京からとか関西からとか職人さんが来なくても、こういう神社仏閣を作る職人が、この鎌倉の地元にいてもいいんじゃないかと思ったものですから、それで何か手立てをと思い始めて、それがそのまま今に流れてきたのです。
■スムーズに会社の立ち上げということになったのでしょうか?
ノミやカンナ、ノコギリを使って大工仕事をするのは得意ですけど、今度はそれを一つの建設会社を作って、法人として立ち上げて行くわけです。「腕がいいですよ」「技術を持ってますよ」だけでは仕事は来ませんから、きちっとした会社組織を作らなくてはいけない。建物の設計をするとしたら建築士の資格を取らなくてはならない。本当に現場で管理をして行くには施工管理技士の資格がいります。会社はなんにもないのにパッと立ち上げることは出来ませんから、資格であるとか実績であるとか実務経験とかが必要で、それを証明するためには資格試験に合格するという必要がありますので、同時にそういう勉強を始めました。
技術だけがあるといっても誰も社会で生きていく手立てにはならない
■生まれも育ちも鎌倉のおかみさんに出会ったということも大きいですか?
建築の資格試験という勉強と同時に、「自分という人間」「人としてどう生きるか」「人間としての生き方」みたいなものを確立して、そして尚且つ、「人としてどう信頼してもらうか」といことがなければ、技術だけがあるといっても誰も社会で生きていく手立てにはならないので、鎌倉に来て6年間仕事をする間に、木材にきちんと文字を書くといことからが原点で書道を始めました。そして礼儀作法を身につけるために茶道の勉強をしました。そういうことをしている中で、私が家内と出会ったのは書道教室でした。鎌倉で世帯を持つということになった時、家内も一緒になって鎌倉で会社を立ち上げるためにはどういうことが必要なのかということを勉強しましたね。
■書道、茶道のほか、料理やマラソンなど棟梁は様々な趣味をお持ちですね?
そうですね、書道とか茶道という道がつくものは、あきらめないでその道を目指したらコツコツと積み上げていって、知識として知っているのではなくて、何か身につくまで稽古しなくちゃいけない。それが非常に自分にはあっているような気がします。自分の身についてプラスになって、それを応用ができるまでになりたいと思うところが非常に多いのです。ですから書道でも茶道でも、今現在でも続けていますが、これで終わりだということはないです。習い始めた20歳前半の頃もたくさん学びましたけど、60歳過ぎた今でも学ぶことはたくさんあって、若い頃感じていたことと、今現在60過ぎて感じることは、同じ事でも全く共感する角度が違うんだなと、いつまで経っても学ぶということが続いているんだなと思いますね。料理にしても、人に対して一服のお茶を出す時、ちょうどお昼時だから、おしのぎですけどちょっと用意したからお召し上がり下さいということがあります。これは茶道の思想なのですが、おしのぎであってもいかにここで喜んでもらうかということ。どんな高価なもの出すとか、どんな立派なものを出すとかということではないのです。そこにあるもの、そこで今用意できるもので、慌てて冷蔵あけても何もないのだけど、裏山の土手でフキがあったとか、それをもって誠心誠意何をして相手に喜んでもらうかということが、自分の原点のような気がします。
■それはご自身の宮大工の道にも通じてくるということですか?
そうですね。そこにあるもの、そこで用意できるものを使って何を作れるか。これが食文化であるのか、建築文化であるのか、そういうものはどの文化でも同じであると思います。どうやって工夫するのか、建物なんかで言いますと、理想を言えばこうだけど予算がこれだけしかないという中で、限られた範囲でどうやって相手に喜んでもらえるものを作れるのか。ないものを要求してもしょうがないですが、それは本当に料理でも茶道でも書道でも同じではないかと思いますね。